「姉川の戦い」にまつわる2つのウソ
単なる小競り合いにすぎなかった。なぜ過大にあつかわれるのか。
■戦国時代の合戦の実態がわからなくなった
結局、戦国時代の合戦の実態が、江戸時代以降わからなくなったのです。戦国史研究が盛んになるのは敗戦後のことであり、特に平成になってからは多くの通説が書き換えられています。
話を三方原の戦い後の家康に戻しましょう。
信玄は三方原の戦いで家康を蹴散らし、信長目指して西進しました。しかし途中で病に倒れます。継いだのは息子の勝頼ですが、徳川への侵攻はますます激しくなるばかりです。徳川方の城が次々と落とされます。連戦連敗の苦境で国境の土豪たちの離反が激しく、家康は信長に助けを求めました。しかし、信長は容易に首を縦に振らず、業を煮やした家康が「ならば、武田に降伏する他なし」と弱者の恫喝を行います。
そこで仕方なく信長が援軍をよこし、起こったのが長篠の戦いです。
教科書では、「信長の3千丁の鉄砲3段撃ちの前に武田の騎馬隊は次々と玉砕した」と書かれ、あげくは「信長は鉄砲の力によって戦国乱世を統一した」とまで持ち上げられるのですが、こうした評価は現在否定されています。
信長のとった作戦は野戦築城です。決戦場になる設楽原一帯の小高い丘の上に馬防柵をつくり、鉄砲で構えていれば武田も攻めてはこられないから負けることはないだろう、武田は遠征軍だからあきらめて帰るだろう、という超消極策です。ところが、何を血迷ったか、武田軍が攻めてきました。
直前に徳川軍が、勝頼が背にしている鳶ヶ巣の武田方の砦を落とし、挟み撃ちのかたちにします。勝頼が決戦せざるをえない状況に追い込もうとする作戦です。それでも北に逃げればいいのですが、勝頼は決戦を選んでしまいました。
織田・徳川連合軍が鉄砲を射かけても、武田軍だって盾で防ぎます。大混戦状態の中、タマタマ、徳川方の鉄砲玉がまぐれ当たりで武田四天王と呼ばれた重臣の内の1人である山県昌景に当たって戦死、武田軍に雪崩現象が起きました。武田軍に大量の死者が出たのは、この際の追撃戦です。